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「兼田敏先生音楽葬」行ってきました。 どういう格好していけば良いかわからず、仕事もあったので普段着のまま参列しましたが、ほとんどの方が喪服で参加されてました。 客席に入ると、ステージの正面に先生の遺影がありました。トレードマークの大きなめがねが印象的でした。客席から舞台まで真ん中に歌舞伎の渡り廊下のようなものがあり客席とステージをつないでました。その左右にオーケストラピットを作り客席からステージを見て右手に名古屋ディレクターズバンドの吹奏楽団。左手は岐阜大学OB管弦楽団が入ってました。 開式の辞で司会の方が、1998年に肺ガンになり、手術で摘出して、その後の経過も良かったが、2001年に膵臓などに転移して5月17日に他界された、とお話しされました。そして、1分間の黙祷。 献奏として、保科洋指揮名古屋ディレクターズバンドが保科先生と、兼田先生の曲を演奏しました。保科先生のラメンテーションは生前、兼田先生と保科先生がお互いの葬送曲を作ろう、ということで作った曲で、自分が先に演奏することになり、とても残念な思いで演奏なさっていたようです。 お別れの言葉として、元N響のチューバ奏者で、元ヤマハ吹奏楽団指揮者の原田元吉さんは「東京芸大生のころ、作曲家の兼田君がユーホニウムを吹いて器楽科の自分とよく一緒に練習したこと」や「ヤマハバンドディレクター養成コースを立ち上げたときに、全ての管打楽器を演奏でき編曲できる指導者を作ろう」と共にがんばったことをお話しいただきました。 愛知県立芸術大学の安元弘行先生は、昨年秋に兼田先生から「体の中の敵が暴れている。戦わねばならないからしばらく休ませてくれ。」「見舞いになんかくるなよ、元気でな」と手をあげて別れた話。 私の大学である神奈川大学吹奏楽部の小沢俊朗先生は「亡くなられる2週間くらい前に岐阜大学病院へ見舞いに行ったとき、温かい手で握られた」ことや「なくなられた日が兼田先生の手がけていた2002年ネム音楽院開幕の日で、ネム全体に衝撃が走った」「我らのボスは永遠です」と声を詰まらせながら話されました。 オーケストラアンサンブル金沢の後藤敏秀さんは、先生からいつも「情けない顔するな」と言われ通しでしたが今日だけは悲しくて情けない顔をしてても許してください。とお話しされました。 その後、写真と音声で在りし日の先生の指導ぶりを映し出してましたが、1975年の元気な声で独特の「犬のションベン」の比喩でオーケストラ団員へ説明していた頃、1999年の最初の手術後のお声、2002年4月21日の聞き取りづらいくらいの弱々しいお声で、「生きる、て、こんなにうれしいことなんだ。君たちにはわからないだろうが、私もこうなって今わかったんだ。音楽って生きている。という喜びなんだ。」 このあと参加者全員が献花をして、みんなで「夏は来ぬ」を合唱。毎年ネムの郷で歌われるこの曲。釣り好きの先生が「夏は来ぬ」じゃなくて「夏はチヌ」だと言ってたことを思い出す。 閉式後ロビーでは自由参加で兼田先生作曲のマーチをみんなで演奏してました。ロビーで滝学園の先輩で岐阜大学管弦楽団OBである杉本さんに先生のたばこのことを聞くと「俺もやめましょうよ、と言ったんだ。でも先生、俺の唯一の楽しみなんだ」とおっしゃってたそうです。もっと強く言えば良かったと残念がってました。 とてもいい音楽葬でした。いま兼田先生のことを思い「シンフォニックバンドの為の序曲」を聞きながら書いてます。 以上が「兼田先生の音楽奏レポート」です。 帰りに小沢先生を名古屋空港まで送るとき、今年の神大の課題曲と自由曲を教えていただきました。一応内緒としておきますが、OBや神大関係者で教えてほしい方はメールください。ヒントは暗いことが多かったのでそういう課題曲を、自由曲は、珍しい曲ではありませんが、えぇ!神大が、あの曲を!という曲です。 兼田先生の作曲された校歌 岐阜市立長良東小学校、岐阜市立芥見東小学校、岐阜市立長良中学校、岐阜市立青山中学校、岐阜県立益田南高校、大垣市立安井小学校、各務原市立桜ヶ丘中学校、各務原市立各務原養護学校、関市立桜ヶ丘中学校、多治見市立北陵中学校、多治見市立南姫中学校、丹生村立丹生川中学校、羽島市立中央中学校、馬瀬村立馬瀬中学校、名古屋市立供米田中学校、刈谷市立朝日中学校、久居市立久居東中学校、大台中学校、愛知県立瀬戸北高校、栄徳高校、観音寺商業高校応援歌、瀬戸旭看護専門学校、岐阜聖徳学園大学学歌、KCBの歌、岐阜市民の歌、千葉県長生郡一宮町「まちの歌」 6月8日アップ分 兼田敏先生が5月17日天国に逝かれました。私が一番最初に好きになった吹奏楽の日本人作曲家が兼田先生でした。ヤマハ吹奏楽団の演奏した「シンフォニックバンドの為の序曲」です。。この曲を聴いて、長良川を連想しておりました。川を舟で下りながら、周りの景色をみて、田畑で働く人を見て先生が作曲したのではないかと思っておりました。 高校3年のとき、滝学園吹奏楽部の杉本先輩が岐阜大学オーケストラに入り、友人と先輩の定期演奏会を聴きに行ったとき、私はプログラムを見てびっくりしました。なんと兼田先生が指揮をするではありませんか。その時初めて憧れの作曲家が岐阜に住んでいることを知りました。 私はその後神奈川大学へ進みましたが、実は神奈川大学吹奏楽部の小澤敏朗先生も兼田先生の教え子なのだそうです。今年1月の定期演奏会で、神大が初めて兼田先生の曲「パッサカリア」を取り上げていました。偶然とはいえ小澤先生と兼田先生の縁を感じます。 高校のとき、初めてあこがれた作曲家の兼田先生は、意外にも私の近いところにいたのです。でも、先生とは2回くらいお話しただけで、この後も先生とはもう会うことができない存在になってしまいました。 先生の作品は、聴く者だけでなく、演奏している人も曲の中にのめり込んでしまう不思議な魅力がありました。ご冥福を祈ります。 6月29日に長良川国際会議場にて、兼田先生の音楽葬がございます。ここでブレーン社に掲載された音楽葬実行委員会のご案内を添付いたします。 兼田敏 音楽葬
兼田敏(作曲家 愛知県立芸術大学名誉教授 元岐阜大学大学院教育学研究科教授 日本管打・吹奏楽学会顧問 日本バンドクリニック委員会顧問)は、平成14年5月17日午前7時30分に永眠いたしました。ここに謹んでお知らせいたします。 日時:6月29日土曜日午後2時から 場所:長良川国際会議場 メインホール「さらさーら」 岐阜市長良福光2696-2 tel.058-296-1200 喪主;兼田 富美子 実行委員会委員長:保科 洋 各位からのお花代を持ちまして、本音楽葬を執り行わせていただきます。不躾ではございますが、下記口座までお寄せいただければと存じます。当日、会場においても承らせていただきます。なお、御遺族の意向により、ご供花およびご供物は固くご辞退申し上げます。 問い合わせ:実行委員会 事務局長 長尾洪基 〒480-1131 愛知県愛知郡長久手町大字長湫字大久手3-4 長尾方 郵便局口座 12190 75783781 口座名義 兼田敏 音楽葬実行委員会 |